教材としての魯迅の魅力

 

 ねらいは何か

 「故郷」を教材とする指導のねらいを、各社の教科書からさぐってみよう。

出版社  学年 単元名 ねらい
三省堂 2年 人間と社会 社会の現実に立ち向かって生きた人々の姿を通して、人間と社会とのかかわりについて考えを深めよう。
学校図書 3年 未来へ 歴史の中に生きる人間のあリ方について考える。
教育出版 3年 人間としての立場 作中人物の人間像をとらえ、人間観を深める。
東京書籍 3年 文学と人生 主題をとらえて作者の考え方にふれ、人生のあり方を考える。
光村図書 3年 文学と人生 社会や歴史の変動の中に生きる人間の姿についてとらえる。


  共通していえることは、「社会とのかかわりあいの中における人間の姿をとらえさせ、人間・人生というものについて考えさせる」ことをねらいとしているということである。
したがって、学習にあたっては、作品世界に描かれている「人間像」や「人物と人物との関係(人物と社会との関係も含まれる)を表現に即して正碓にとらえさせ、人物の生き方について考えさせることが中心になってくる。



   読みの基本的な観点

1 視点をはっきりさせる


   最も基本的なことは、「作品の世界が、誰の目を通して描かれているかを、はっきりとらえさせる。」ことである。
  それによって、その人物の内面(物事・人物に対する感情・評価、生き方についての考えなど)が明らかにとらえられてくる。

  さらに、その人物の内面を投影した状況描写であり、自然描写であることが理解されるようになってくる。

 この作品は、「わたし」の目を通して描かれており、継時的展開の中に子どもの頃の思い出が挿入されている。この子どもの頃の思い出を描いているのは、「現在のわたし」の心を通した「子どもの頃のわたし」の目であることもしっかりと押えさせたい。



 2 ブラスイメージとマイナスイメージ

   作者は、人物や、人物と人物との関係などについて、読者が読みながらブラスかマイナスのいずれかのイメーンをもつように描き分けている。一読して、どちらのイメージをもつか予想させ読み深めていくにつれて、イメージが「どこで、どのように強化されていくのか、あるいは、逆転されるのか」を意識させながら授業を進めていきたい。

  ここでブラスに描かれているのは、「思い出の中のルントウと楊おばさん」、「ホンル」、シュイション」と「子どもの頃のわたしとルントウの関係」、「ホンルとシュイションの関係」である。今のルントウと楊おばさん」と「現在のわたしとルントウの関係」は、マイナスに描かれている。



 3 比較の思考

 人物や、人物と人物との関係、情景描写などを「比較しながら考える」ことを、基本的な構えとして身につけさせる。

 人物の特徴や本質を明らかにしていくには「どこが同じで、どこが異なるのか」、「変わらないのは何で、変わったのは何であるか」という観点で読んでいくことが必要である。




 比較しながら読む

 1 人物

 わたしが子どもの頃と現在という観点で比較できるのは、「わたし」、「ルントウ」、「楊おばさん」の3人である。中心として考えてみたいのは「ルントウ」である。「楊おばさん」は、ルントウのイメージを一層強めるための役割も担っている。

 「ルントウ」について、時、年齢、外面、内面(会話から)などを比較していくと、外面の描写が現在のルントウでは詳しくなっていることがわかる。この効果について考えさせたい。

 特に注意したいことは、わたしに対する「言葉遣い」と「呼称」である。子どもの頃のルントウは、「……だめだよ。……降るだう。……なんだ。」という口調だが、現在のルントウは、「……でございます。」である。対等の関係が従属の関係へと変化している。このことを決定的に示しているのが「おまえ」が「だんな様」に変わる呼称の変化である。

  このようなことを押えさせてから、ルントウを変えさせたのは何かということを考えさせていくのである。

  人物と人物を比較しながら考えていくことも必要であるが、ここでは割愛する。

 

  2 人物と人物との関係

    次の7種類の関係が考えられる。(親子の関係は除く)

     ①思い出の中のわたしとルントウ

     ②思い出の中のわたしと楊おばさん 

     ③現在のわたしとルントウ

     ④現在のわたしと楊おばさん

     ⑤わたしの父とルントウの父

     ⑥ホンルとシェイション

     ⑦母と村の人々。

 このうち、地位や身分を考えない対等の関係は①と⑥だけである。他はすべて地主と小作人という関係が、人物と人物との間を規制している。現住のわたしとルントウの関係は、わたしがどう思っていようとも、基本的には「わたしの父とルントウの父との関係」と同じである。

 また、母の言葉の中にある「あれ(ルントウ)」、「あの連中(村人)」という呼称や、「くれてやる」という表現からも、母(わたしたち一家)の立場や考え方を読み取ることができる。

 3 行きと帰りの情景

               行  き             帰 り
  空模様は怪しくなり、冷たい風がヒューヒュー音をたてて、
  船の中まで吹き込んでいた。

  苫のすきまから外をうかがうと 

  鉛色の空の下、わびしい村々が、いささかの活気もなく
  あちこちに横たわっていた。




窓辺にもたれて、暮れゆ く外の景色を眺めていた。

両岸の緑の山々は、たそがれの中で薄墨色に変わり、
次々と船尾に消えた。


 この描写の違いから、わたしの心情を推し測ることができる。現在住んでいる所を「異郷」と認識しているわたしが、「なじみ深い故郷」とよぎなく別れなければならないという暗くしずんだ心情。故郷を離れる暗い気持ちの中にも「名残り惜しい気はしない」といい、新しい生活への道を歩もうとするわたしの心情を情景描写が反映していることがわかってくる。

 変わらないものは

 プラスイメージとしては、「思い出の中のわたしとルントウ」と「ホンルとシュイション」の関係である。身分の違いはあっても、どちらも子どもであることによって、社会の制約を受けずに子どもらしい、人間らしい関係を保っている。

 マイナスイメージのものとしては、「わたしの父とルントウの父」と「現在のわたしとルントウ」の関係があげられる。大人と大人との関係であるがゆえに、社会の制約を受けざるを得ない。「現在のわたしと楊おばさん」の関係も同様である。



 未来への希望

 重い心で離郷の船中にあるわたしに希望を持たせたのは、ホンルの「だって、シュイションが僕に、家へ遊びに来いって。」という言葉であった。この言葉によってわたしは、「若い世代が今でも(このような社会でも)心が通い合っている」ことを痛感し、それに希望を託して彼らが「私たちの経験しなかった新しい生活」を持てるようにするために努力しようと決意するのである。そのわたしの決意の反映として、帰りの船は「ひたすら前進する」と表現されている。

   また、思い出の場面とまどろみかけた私の目にうつった場面の海辺の景色の描写に注目したい。

       思い出               帰りの船中

 紺碧の空に金色の丸い月 
がかかっている。

その下は海辺の砂地で見渡す限り縁  
 の西瓜が植えわっている。
  海辺のよい縁の砂地が浮 かんでくる。

 
 その上の紺碧 の空には、金色の丸い月が
かかっている。


 景色を構成する要素(紺碧の空、金色の丸い月、海辺の縁の砂地)はすべて同じである。何か異なるところはないであろうか。

 読者がイメージ化する順序が違っている。 思い出の場面では、上から下へと映し出される。空が映りり、そして緑の砂地が映る。 船中では、縁の砂地が映り、そして空が映る。下から上ヘである。空は無限の希望を秘めているのである。

 

 さらに、つけ加えるならば季節である。現在は寒い冬、やがて春が来る。ここにも未来への希望を読み取ることができよう。


 留意したいこと

 

 1 人物や事物に対する呼称

 「おまえ」、「だんな様」についてはすでに述べたが、わたしやルントウ、母などについての呼称を調べてみると、その時の人物のおかれている状況や関係、心情が明らかになってくる。  楊おばさんを「コンパス」という冷たく固いイメージを持つ無生物で呼称していることから、わたしの楊おばさんに対する強烈な心情が浮びあかってくる。
 「家」に対する呼称や、「故郷」に対する呼称からもわたしの心情がうかがわれる。
 
 2 比喩

  何に例えるかによって、例えられるものに対する心情を表している。「ルントウの心は神秘の宝庫」や「まるで製図用のコンパスそっくり」などから、わたしの心情をさぐることができる。

 

 3 文末表現

 会話文における文末表現は、「人物と人物との関係」を示すとともに、「その人物の心情」をも示している。
 地の分の文末表現で注意したいのは、過去形の文末の中における現在形の文末の存在である。現在形は、読者に臨場感を持たせる慟きをする。あたかもその場にいて情景を見でいるような鮮明なイメージを描かせる効果を持っている。思い出の中の海辺の景色、現実に会ったルントウの描写、夢の中の海辺の景色などがそれである。


 4 構成

 起承転結の構成の中に、回顧的視点を取り入れ、少年の頃の明るくのびのびとしたルントウの姿を提示し、一転して心も休も疲れきったルントウの姿を出して、読者に強烈な印象を与える巧みさにも目を向けさせたい。


 発展として「藤野先生」を読む

 

 「藤野先生」という題から分かるように、藤野先生が中心人物として描かれている。しかし、この作品の世界も、「わたしの目」を通して描かれていることを押さえさせるならば、「わたしの心情」を読み取っていくことが中心課題であることに気づくであろう。

 

 「故郷」のわたしとの共通点を見つけさせることを観点として読ませていきたい。 「故郷」では、わたしが故郷の民衆の姿を見ることによって、新しい生活への道をさぐろうと 決意したことが描かれている。

  「藤野先生」では、わたしが何を見て、どうしたのかという点からさぐっていくのである。
 東京でのわたしは、上野の「清国留学生」や中国留学生会館での仲間たちのふるまいを見て仙台へ行く。
 仙台では、藤野先生たちのもとで医学の勉学に励むが授業で見たニュースのIコマ (ロシア軍のスパイとして日本軍に処刑される中国人と見物している中国人たち)にショックを受ける。そして、「この時この場所でわたしの考えは変わった」として、医学への道をすて仙台を去っていくのである。

  自分の見たものを契機に、自分の考えを発展させ、新たな目標へむかって行動するわたしが描かれている。
  発展として「藤野先生」を読むことによって、「故郷」におけるわたしのイメージが一層補強され、鮮やかにとらえられるものと思われる。

 以上のような点に留意して指導していくならば、十分ねらいを達成することができるものと思う。授業の各場面では、生徒が自己の思考を記録するための「書く活動」をできるだけ設定し、それを土台として話し合わせ、豊かな読み取りをさせるようにすることが必要である。(月刊 国語教育 1984 11月号)


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